※登場人物は全て仮名です。
「生チョコ発祥」シルスマリアの重みを知らなかった私
三十二歳、独身、彼氏なし。バレンタインなんて、ここ五年は義理チョコすら買っていない。そんな私が、まさかチョコレート沼にハマるとは思ってもみなかった。
きっかけは、会社の後輩・美咲のInstagramだった。
『今年もシルスマリア。やっぱりここが一番』
写真には、深い茶色のトリュフが美しく並んだ箱。シルスマリア?聞いたことあるような、ないような。でも美咲、毎年スイーツ選びにこだわるタイプだし、きっと今年の流行りなんだろう。
翌日、私は何気なく美咲に聞いてみた。
「そのシルスマリアって、今年人気なの?」
美咲は一瞬、固まった。そして、微妙な笑顔で答えた。
「人気っていうか...生チョコ発祥のお店なんですよ」
「へえ、新しいブランド?」
「...いえ、老舗です」
美咲の目が泳いでいる。何かマズいこと聞いたかな。でも私は気づかなかった。自分がとんでもない地雷を踏んでいることに。
その夜、スマホで「シルスマリア」を検索してみた。そして、画面を見て固まった。
『生チョコレート発祥の店』 『1988年創業』 『バレンタインの定番』 『知らない人はいない名店』
...知らない人、ここにいます。
しかも、SNSを見れば見るほど、みんな当たり前のように知ってる。「今年もシルスマリア」「やっぱりここ」「毎年恒例」。つまり、流行りじゃなくて、定番中の定番。
私、三十二年間、何してたんだ。
恥ずかしさと同時に、妙な好奇心が湧いてきた。そんなに有名なら、一度食べてみたい。いや、食べないと、この恥ずかしさが浄化されない気がする。
翌週末、私はデパ地下のシルスマリアに立っていた。
ショーケースには、様々な種類の生チョコが並んでいる。マール・ド・シャンパーニュ、シャンパントリュフ、ウイスキー生チョコ。うわ、種類多い。どれがいいのか全然わからない。
「初めてでしたら、定番のマール・ド・シャンパーニュがおすすめですよ」
店員さんが優しく声をかけてくれた。私は顔が赤くなるのを感じながら、小さな声で答えた。
「...はい、初めてです」
三十二歳にして、シルスマリアデビュー。遅すぎる。
家に帰って、恐る恐る箱を開けた。深い茶色のトリュフが、きれいに並んでいる。一つ、口に入れてみる。
瞬間、世界が変わった。
なにこれ。口の中で、チョコレートがとろける。本当にとろける。滑らかで、濃厚で、でもしつこくない。ブランデーの香りがふわっと広がって、大人の味。
私、今まで何食べてたんだ。
いや、普通のチョコも美味しい。美味しいけど、これは...レベルが違う。「生チョコ発祥」の意味が、舌で理解できた。ここが始めたから、みんなが真似したんだ。元祖の味、これか。
気づいたら、一箱空けていた。
翌週、私は再びデパ地下にいた。今度はシャンパントリュフ。その次の週はウイスキー生チョコ。自分へのご褒美とか言い訳しながら、毎週買っている。完全にハマった。
そして、恐ろしいことに気づいた。私、去年のバレンタイン、何を配ったっけ。
記憶を辿る。そうだ、スーパーで買った、千円くらいの詰め合わせ。可愛い缶に入ってたやつ。それを、お世話になってる部長に渡した。
部長、絶対シルスマリア知ってるよね。
もしかして、あの時、内心「え、これ?」って思われてた?
私、無知すぎて、逆に恥ずかしくなかった?
いや、考えるのやめよう。過去は変えられない。
でも、今年は違う。今年のバレンタインは、私もシルスマリアで行く。ちゃんとリサーチして、相手に合わせて選ぶ。部長はお酒好きだから、ウイスキー生チョコ。美咲には、彼女がいつも買ってる定番のマール・ド・シャンパーニュ。
そして、自分用にはシャンパントリュフの大箱。
会計の時、店員さんが言った。
「いつもありがとうございます」
え、私、もう常連扱い?
デビューから一ヶ月で常連になる三十二歳。我ながらすごい。
バレンタイン当日、私は意気揚々と配った。部長は「おお、シルスマリア!」と喜んでくれた。美咲は「先輩、シルスマリアお好きなんですね」と微笑んだ。
好き、というか、今年ハマった。そして今更知った。とは言えない。
「うん、まあね」
とだけ答えて、私はさりげなく微笑んだ。
帰宅後、自分用の大箱を開けながら思った。人生、知らないことだらけだ。三十二年も生きてて、生チョコ発祥の店を知らなかった。でも、知らなかったから、今、こんなに楽しい。
シャンパントリュフを口に入れる。やっぱり美味しい。
来年のバレンタインも、シルスマリアにしよう。そして再来年も。もう私も「毎年恒例」って言える側になる。
スマホを開いて、Instagramに投稿した。
『シルスマリア、やっぱり美味しい』
「やっぱり」って言っちゃった。まあ、嘘じゃない。今年何度も買ったし。
美咲から即座にコメントが来た。
『先輩もシルスマリア派なんですね!』
派、というか、今年から入信した。
でも、それは内緒。
私は微笑みながら、また一粒、口に運んだ。生チョコ発祥の味。これが、本物か。
三十二歳の冬、私はようやく本物を知った。遅すぎる?いや、ちょうどいい。これからの人生、まだまだ長い。知らなかったことを知る楽しみは、これからもたくさんある。
次はどんな「本物」に出会えるだろう。
そう思いながら、私は至福の夜を過ごした。チョコレートと共に。